さゆりの母

入院

 さゆりが大学4年生の7月、あの丈夫だった母が入院した。右耳の下のできものを取る手術を受けるため。
 入院した日から、彼女はずっと母に付き添った。手術後は夜通し看病した。1時間も眠っただろうか。
 彼女は、寝不足でボーッとしたまま、翌日、病院から教員採用試験の会場へ向かった。結果は、散々だった。
 結局母は、7月と8月を病院で過ごし、秋には退院することができた。昭和53年のことであった。

再入院

 昭和53年の10月、母の病気は再発してしまった。自宅にいたのはわずかに1ヶ月だけで、また、あの病室に戻らなければならなかった。
 さゆりの教員採用試験不合格の知らせが、一層、母の顔を曇らせてしまった。母が一番心配していたさゆりの採用試験。
「採用数が少ないんだし、勉強不足だったから・・・。」という彼女に母は言った。「私のせいだ・・。」
 こうして母は、大学病院で、長い闘病生活を送ることになったのである。

父の涙

 昭和54年1月のある日、冬休みで家に帰っていたさゆりを、父が呼んだ。めずらしく居間ではなく、応接室に呼んだ。

 「母さんは、・・・・。母さんの病気は・・・・癌だ。・・・もう、治る見込みはない。長くてもあと半年だ・・・。」

 あとのことばがつながらなかった。頭の中が真っ白になった。なにか現実のことでないような気がしていた。
 「1番大事な母さんが、いなくなる・・・・。」そんなこと、すぐに受け入れられるはずがない。
 彼女はこの時、はじめて見た。大きな父の背中がふるえているのを。そして、父の涙がほほをつたわり落ちるのを。

看病

 こうして大学4年のさゆりは、卒業式を待たずに母の看病のため故郷へ帰ったのである。
 「私が最愛の母のために、今してあげられることは、少しでも長く、母のそばにいてあげること・・・。」
 そう思った彼女は、その年の2月と3月の2ヶ月間、朝も昼も夜もずっと母につきっきりで看病した。
 病室では笑顔で母に話しかけ、廊下で泣いた。本人に癌であることを隠し通せるだろうか・・・。
 この頃から、放射線治療による副作用で、母の髪の毛が徐々に抜けてきていた。              「入院日誌」より

仕事と家事と勉強と看病と

 昭和54年4月、さゆりはH中学校に講師として勤務することになった。昼間は、さほど歳の違わない中学生と接し
 仕事に専念することで、苦しい現実から少しは逃れることができた。
 月から金は、勤務を終え帰宅してから、食事の準備、かたづけ、そうじ、洗濯などの家事をやり、夜は、採用試験の勉強をした。
 土は、午前中の勤務を終えると、そのまま列車に乗り、大学病院へ向かった。土日を母とともに過ごし、月曜日の朝早くA駅からの
 始発に乗って、そのまま学校へ行った。
 こんな生活をしばらく続けることになったのである。

2度目の採用試験

 夏…前の年と同じように、病院から試験会場に向かった。
 秋…試験結果が届いた。      2度目も不合格だった・・・・。
 病床の母になんと告げたらいいのだろう?
 本当は合格して、母を元気づけるはずだったのに・・・・。

母の心配事

    母の心配事は2つあった。
 1つは、さゆりの採用試験のことだった。ベットの脇で、結果を言い出せないでいる彼女に母がきいた。
 「・・・試験どうだった?」「・・・・・だめだった・・・・・。」
 「・・・そう・・・・私が、こんな病気にさえならなければ・・・・。」  母の涙が、みるみる枕を濡らしていった。
 もう1つの心配事は、さゆりの結婚のことだったらしい。
 この年の11月頃には、癌が全身に転移し、時折激しい痛みを訴え、その度に痛み止めの注射をしてもらっていた。
 注射の回数も徐々に増えていった。薬のせいで、時々、意識が朦朧としていた。そんな朦朧とした意識の中で、いつも決まって言うことがあった。
 「今日は、おまえの結婚式だ。何ぼやっとしてる?早く準備しなさい!」

1月4日

 もうベットから起き上がることもできなくなっていたが、それでも母は、必死で病気と闘っていた。長くてもあと半年・・・と言われたあの時から、
 もう1年になろうとしていた。
 昭和54年の大晦日。病室でNHKの紅白歌合戦を見ていた。母の意識はもうなかったが、さゆりは母の手を握り語りかけた。
 「母さん、今ね、テレビで紅白歌合戦やってるよ。」  そうしたら、なんと、意識のないはずの母が彼女の手をギュッと握り返したのである。
 「母さん、わかるんだね。」  しかし、その後の反応はなかった。
 年が明けて、昭和55年1月4日、家族の呼びかけもむなしく、母は静かに逝ってしまった。
 母、51歳。さゆり、21歳の時のことであった。

3度目の挑戦

 さゆりは、3度目の挑戦をしようとしていた。もう失敗はできない。4月からの講師の話を断り、A駅までの定期券を買って、
 毎日県立図書館に通って、採用試験の勉強をした。
 夏の1次試験を終え、9月の2次試験も無事に終えた。
 そして、10月のある日、1通の封書が届いた。宛名は、返信用として彼女が書いた自分の名前であった。
 彼女はそれを神棚にもっていき、母の写真の前で開いた。母と一緒に結果を知りたかった。
 中には、いくつかの書類が入っていた。そして彼女は、ついに見た。『 登録A 』の文字を。
 「母さん、やったよ。やっと合格できたよ、母さん!」
 額の中の母が優しくほほえんでいた。

秋桜

 母が逝ってしまってから6年後・・・。  さゆりは、母の心配事の2つ目だった結婚をすることになった。
 3月25日の結婚式を間近に控えたある日、ふとラジオをつけると、この曲が流れてきた。「秋桜」
 『ありがとうのことばを、かみしめながら、生きてみます、私なりに・・・』
 この曲を聴いてるうちに、涙があふれてきて、止めることができなかった。
 母さん、ありがとう。あなたの支えがあったから、こうやって頑張ってこれました。『 母への手紙 』