「入院日誌」より  〜 抜粋 〜  

 私の手元に、1冊の大学ノートがある。あの時の「入院日誌」である。
母と看病していた家族が綴ったものである。

 読んでいると、あの時の1コマ1コマが蘇ってくる。

1978年 7月 1日

前から気になっていた首の腫れを町の診療所で診てもらった。
レントゲンをとる。大きな病院に行くように言われ、紹介状をもらった。(本人)

1978年 7月 4日

大学病院耳鼻科で検査を受ける。
父さんにもついてきてもらったが、不安がつきまとってどうしようもない。(本人)

1978年 7月21日

耳鼻科で診察を受ける。入院が決定し、予約する。
覚悟はしていたが、いざとなるとかなり動揺する。(本人)

1978年 7月28日

大学病院耳鼻科病棟 662号室に入院する。(本人)

1978年 7月31日

顎下腺腫瘍摘出手術。6時間余りの大手術だった。(夫)
 

1978年 8月 1日

痰がからんで苦しそう。
麻酔の影響か、熱が高い。夜通し冷やす。
唇がカサカサにならないように、濡れたガーゼをあてがった。(三女、さゆり)

1978年 8月 2日

点滴がずっと続いて、だいぶ疲れた様子。
夕方、流動食を全部吐く。まだ、痰がからんで苦しそう。
あとどれくらいの辛抱だろう。(長女)

1978年 8月 6日

昨夜はずいぶん楽になり、よく眠れたとのこと。
手術後、ちょうど1週間寝たきりで大変だったけど、よく頑張った。(次女)

1978年 8月 7日

久しぶりに、布団の上に起きあがることができた。
病気がいかに辛いものであるかを悟った。
三人の娘達がよく看病してくれる。(本人)

1978年 9月 1日

順調に回復し、退院する。
同室の人達が、退院をうらやましがった。(本人)

1978年 9月13日

大学病院の外来へ。
今のところ異常ないと言われた。
黒い粉末の薬を4週間分もらう。合計3万円もする高い薬である。(本人)

1978年10月31日

町の診療所へ。
めまいがひどく、物が二重に見える。
吐き気がする。夜寝るまで胸がむかむかして苦しい。(本人)

1978年11月10日

町の診療所へ。
胃の具合が悪く、食欲もなく、頭も痛くてどうしようもない。(本人)

1978年11月22日

大学病院放射線科に再入院。
食べることができないので、点滴を2本する。(本人)

1978年11月28日

9時半より、血管造影の検査を受ける。6時間絶対安静。
午後になって頭が痛み出して、座薬を入れてもらう。(本人)

1978年12月 5日

今日は、ボーナス日。
父さん一人で、どうしているだろうか。
今年はじめての吹雪となった。車のスリップ事故のないように祈る。
8時頃から急に目が痛み出し、昼頃まで病んでいた。
目の静脈に造影剤を入れて検査するとのこと。(本人)

1978年12月 6日

昨夜は眠れなかった。今日は1日中疲れている。
頭と目が痛む。どうしようもない。
病気を早く治療しなかったことを後悔している。残念でならない。
どうしてこうも苦しまなければならないのか。
早く治ることを祈るのみである。(本人)

1978年12月13日

目の静脈に造影剤を入れる検査をした。
あの時、もう大学病院には来なくてもいいと思ったのに・・・。
母さん!気持ちをしっかりもって早く元気になって!(三女)

1978年12月22日

放射線照射第1回目。
そのせいか、昼頃から激しく痛み出す。いつもの痛みと違うようだ。
今までこんなに痛くなったことはないという。
手足と胸のしびれもある。もうみていられない。
注射を3本したら、やっと落ち着いた。(三女)

1978年12月30日

12時20分、病院から外出の許可を得て家へ帰る。
年末年始の病院に、一人ぼっちでいるのは辛いので、家に帰りたいと言っていた。
願いがかなって喜んでいた。(夫)

1979年 1月 3日

今日は、病院へ戻る日だ。
昨日と同じく、午前中はよかったが、昼過ぎに薬を飲んでしばらくしてから、
吐いてしまった。気分が悪そうだった。
本人が早く病院に戻るというので、予定より早く、午後2時40分に家を出発した。(次女)

1979年 2月 5日

首への放射線照射10回目。目の横へ25回目。
目の横への照射は今日で終わり。
午前10時頃、お風呂に入る。痛みはだいぶ薄れてきた様子。(三女)

1979年 2月20日

首への放射線照射20回目。これで照射終了。
今後、いろいろな検査をして、治療方法を決めるとのこと。(三女)

1979年 3月23日

1人でお風呂に入る。今日もあまり痛みがなくて楽だった。
三番目の娘の就職が決まった。長期講師として内定したとのこと。
喜んで、今日の卒業式に臨んだことと思う。(本人)

                          
                          
                          
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        放射線治療の効果により、痛みは確かに薄れた。
        本当に回復したかに見えた。
        しかし、それは一時的なものであった。
        病魔は、確実に母の体を蝕んでいった。

        1979年の夏には、癌が全身に転移し、手のほどこしようがなかった。
        これまで以上の苦しい闘病生活を強いられた。
        痛みは日に日に増していき、痛み止めの注射の本数も増えていった。

        こうして、壮絶とも言える病気との闘いは、1980年の1月4日まで続いた・・・。
   

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☆☆☆☆☆ 妻から夫へ ☆☆☆☆☆

   ◎ 病床で、家庭のだんらん想いつつ、   夫と娘のありがたさ知る。

   ◎ 孫の手を、にぎりしめてはみるものの、 抱かれぬつらさに寂しく思い。

   ◎ 夫恋うる心に変わりはあらねども、   病の床では、いたしかたなし。

   ◎ 夫からの歌をもらった嬉しさに、    涙ぐみつつペンを走らす。


☆☆☆☆☆ 夫から妻へ ☆☆☆☆☆
 

   ◎ 末娘、母の看病日課なり、       親子の愛を肌で受け継ぐ。

   ◎ 病床の身にてダイヤル回す妻、    想い切なく、愚痴を言うまい。

   ◎ 病院へ行く気はあれど公務あり、    待てる妻には、すまぬ思う。

   ◎ 治療の身、生き抜く妻の目がうるむ、  回復の兆し、ともに喜ぶ。


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